Feature — 星勝(Katz Hoshi)· 11 songs

君は星勝を知っているか〜名前は知らなくても、音は知っている。
日本のうたを支えた編曲家を辿る旅〜

若い世代は、もう名前を知らないかもしれない。それでも、日本の音楽史に刻まれている人がいる。
モップスのギタリストで、井上陽水「氷の世界」を編曲した、星勝。その仕事と足跡を、11曲で一緒に辿る旅。

IN THIS ISSUE

日本でいちばん有名な、
知られていない音楽家がいる。

モップス。井上陽水。小椋佳。RCサクセション。来生たかお。薬師丸ひろ子。安全地帯。尾崎豊。浜田省吾。名前だけ並べれば、昭和から平成のヒット曲の山になる。

そのほとんどに、同じひとりの名前がクレジットされている。星勝(ほし かつ)。1948年8月19日生まれ、デビューしたての頃の芸名は「星まさる」だったWikipedia。19歳でギタリストとしてバンドでデビューし、解散してから編曲家に転じた人だ。

編曲は、歌の裏方だ。作詞と作曲の名前は覚えられても、編曲の名前は覚えられない。だからこの人は、日本でいちばん有名な「知られていない」音楽家になった。

その人が生きてきた時代も、一緒に連れてくる。1973年10月、第四次中東戦争を機に第一次オイルショックが始まり、翌1974年には消費者物価が23パーセント上がって「狂乱物価」という言葉が生まれ、日本は戦後初めてのマイナス成長を経験して、高度経済成長が終わったWikipedia。同じ時期、若者はロングヘアにベルボトムのジーンズ、絞り染めのTシャツを着て、女性もジーンズをはくようになっていたマイナビウーマン。明るい曲が売れた時代じゃない。

1975年、フィンランドのロック・フェス「ルイスロック」の観客。
写真:Keijo Laajisto / Museovirasto(CC BY 4.0)

最初は、ギターを抱えた19歳の少年から始まる。

1967年の夏、アメリカ・サンフランシスコのヘイト・アシュベリーには、最大で10万人の若者が集まったといわれる。長い髪、花、反戦。この夏は「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたWikipedia — サマー・オブ・ラブ。

1967年8月、アムステルダムの「フラワー・パワー」。
写真:Pieter Jongerhuis / Anefo(CC0)

同じ年、日本でデビューしたモップスは、日本のサイケデリック・ロック・バンドと呼ばれたWikipedia — 星勝。

1969年8月、ウッドストック・フェスティバルの若者たち。
写真:Derek Redmond and Paul Campbell(CC BY-SA 3.0)

目隠しで弾いた19歳。客は昼も夜も、同じ5人

ザ・モップス - 朝まで待てない

1967

ザ・モップス「朝まで待てない」演奏:星勝(モップスのギター)この曲のページへ →

1966年、埼玉で4人の高校生が「チェックメイツ」というインストバンドを組んでいた。そこにドラムの実兄がヴォーカリストとして加わって、5人になった。モップスであるWikipedia。

1967年11月、日本ビクターから「朝まで待てない/ブラインド・バード」でデビューWikipedia。作詞は阿久悠、作曲は村井邦彦。星勝はこのとき19歳だった。

当時のグループ・サウンズは、揃いの衣装でプールやデパートの屋上で演奏するのが普通だった。モップスは違った。全員バラバラの奇抜な衣装で、ステージには楽器を縦に並べ、目隠しをして演奏したWikipedia。ホリプロ社長の堀威夫が1967年のアメリカ旅行で見たサイケデリック・ムーヴメントを持ち帰り、「日本最初のサイケデリック・サウンド」を掲げたのが発端だったWikipedia。

モップスを担当したホリプロの社員は、当時をこう書いている。仕事といえばジャズ喫茶の出演がほとんどで、最悪のときは昼夜のステージの客が、最初から最後まで同じ5人だった、とmusic-calendar.jp(当時の担当者による回顧)。

聴きくらべ — 星勝が歌っている代表曲

ザ・モップス「月光仮面」歌・演奏:星勝(リード・ヴォーカルとギター)この曲のページへ →
この「月光仮面」、歌っているのは星勝さん本人。ネットでは「さすがヒロミツの声!」と褒められることが多いそうで(ShimaQ の 今日この頃)、本人の歌が、別人の名前で褒められる。裏方人生、ここからもう始まっていた説。

その星勝が、初めて「自分の名前で」譜面を書く日が来る。

初めて書いた譜面は、ブーイングから始まった

ザ・モップス - 御意見無用

1971

ザ・モップス「御意見無用(IIJANAIKA)」作曲・演奏:星勝この曲のページへ →

1971年1月25日発売。作詞は鈴木ヒロミツ(鈴木博三名義)、訳詞は喰始、作曲は星勝昭和歌謡の編曲家 代表作一覧。

星勝はモップスの曲の半分近くでリード・ヴォーカルを取っていた。それなのに、その声を「鈴木ヒロミツのヴォーカル」と書かれることが今も多いShimaQ の 今日この頃。

同じ年、モップスはヤマハの作曲コンクールにフルバンド編成で出ている。星勝が初めてフルバンドのアレンジを書いたのがこれで、楽器の音域はハプニングス・フォーのクニ河内にもらった音域表を見ながら書いた。ところがその表は「ほぼ楽器の限界音」が書いてあったため、音合わせでミュージシャンからブーイングが出たmusic-calendar.jp。譜面を引き上げ、その場で書き直して本番に間に合わせ、モップスの「雨」はグランプリを取ったmusic-calendar.jp。

この「御意見無用」は、その年の勢いがそのまま入った曲だ。

聴きくらべ — 尖っていた頃の記録

モップス「雷舞(LIVE !)大阪・中之島中央公会堂」演奏:星勝(モップスのギター)
ザ・モップス「たどり着いたらいつも雨降り」演奏:星勝(モップスのギター)この曲のページへ →
プロの楽団にいきなりブーイングされて、その場で書き直して、グランプリ。僕なら会場のトイレで膝を抱えてます。原因は音域表の「限界音」をフルに使ったこと(music-calendar.jp)。つまり全楽器に全力疾走を命じていた。新人、元気。

1974年、モップスは解散する。星勝は、歌うのをやめた。

1970年4月、大阪万博の国連館。
1970年4月、大阪万博の国連館。 写真:m-louis .® / CC BY-SA 2.0(Wikimedia Commons)

1970年3月15日から183日間、大阪・千里丘陵で日本万国博覧会が開かれた。アジアで初めての万博で、総入場者数は6421万人を超えたWikipedia — 日本万国博覧会。モップスが活動していた頃、日本はこんな未来の形を見上げていた。

譜面が読めない男が、譜面を書き込んだ

井上陽水 - 心もよう

1973

井上陽水「心もよう」編曲:星勝この曲のページへ →

星勝がモップス以外の仕事を初めてやったのは、井上陽水のデビュー・アルバム『断絶』の編曲だったWikipediamusic-calendar.jp。

演奏は、鈴木ヒロミツ以外のモップスのメンバーがそのまま担当した。星勝がやりやすく、予算も抑えられる、一石二鳥のアイデアだったmusic-calendar.jp。

当時、編曲といえば正式な音楽教育を受けた人がやるのが普通だった。星勝はほぼ独学で、のちに「譜面が読めなかった」と告白しているWikipedia。コードだけ書いて演奏家に任せるのが当たり前だった歌謡曲の現場で、『断絶』ではほとんどの楽器の譜面を緻密に書き込んだと言われているWikipedia。

「心もよう」は1973年9月21日発売。陽水にとって初めてオリコン・シングルチャートのトップ10に入った曲であるWikipedia — 氷の世界(アルバム)。曲名をつけたのは、プロデューサーの多賀英典だったWikipedia — 多賀英典。

シングルの裏面、陽水さんが本当はA面にしたかったのは「帰れない二人」のほう。多賀さんが「心もよう」を推して題名まで付け、A面を取った。負けた「帰れない二人」は、忌野清志郎との共作です(Wikipedia — 心もよう)。その清志郎が、4章あとで星勝と組みます。

そして、その年の12月。日本でいちばん売れるアルバムが生まれる。

1970年4月の東京。
1970年4月の東京。 写真:Szilas / CC0(Wikimedia Commons)

同じ1970年3月、『an・an』が創刊されたWikipedia — an・an。翌1971年5月には『non-no』Wikipedia — non-no。若い女の子たちが、雑誌を片手に街へ出ていく時代が始まる。

シャッターの下から売れた、日本初の100万枚

井上陽水 - 氷の世界

1973

井上陽水「氷の世界」編曲:星勝、ニック・ハリソンこの曲のページへ →

1973年12月1日、アルバム『氷の世界』Wikipedia。当時の日本人アーティストとしては珍しく、ロンドンで録音された。クォーターマスのピート・ロビンソンとジョン・ガスタフソン、後にイアン・ギラン・バンドに参加するレイ・フェンウィック、ローリング・ストーンズ「悲しみのアンジー」のストリングス編曲を務めたニック・ハリソンが参加しているWikipedia。

表題曲「氷の世界」の編曲は、星勝とニック・ハリソンの連名Wikipedia — 氷の世界(曲)。それまでフォーキーな曲が多かった陽水が、この曲ではかなりファンク色を出している。スティーヴィー・ワンダーの「迷信」を意識して作られたというWikipedia — 氷の世界(曲)。

いま鳴っているこの映像は、投稿者が「TV初出演」と題して残しているものだ。九州ニューミュージックフェスティバルの模様で、若い陽水が「窓の外ではリンゴ売り」と歌っている。

ジャケットの写真は、楽屋でギターを弾く陽水。そのギターは忌野清志郎の所蔵品だったと、忌野本人が後日談として語っているWikipedia。

ジャケットのあの白っぽい写真、狙いではなく、ネガを現像液に長く浸けすぎた結果だそうです(Wikipedia)。失敗が、日本でいちばん売れたLPの顔になった。僕の失敗は、だいたい失敗のまま棚に並んでいます。

発売から2年後の1975年8月、日本レコード史上初のLP販売100万枚突破Wikipedia。福岡・天神の日本楽器では、開店前の朝8時から客が殺到し、シャッターが下りたまま係員が段ボールからレコードを取り出して即売したというWikipedia。

聴きくらべ — 2020年、森恵の「氷の世界」

森恵「氷の世界」カバー(2020年『COVERS2 Grace of The Guitar+』)この曲のページへ →
物価が1年で23パーセント上がった年に、当時いちばん高い買い物のひとつだったLPが、日本で初めて100万枚。僕はスーパーの卵が30円上がっただけで、棚の前で5分固まります。あの頃の若者、強い。

同じ1974年、星勝はロサンゼルスで、別のアルバムを作っていた。

石油危機で明かりを消した看板(1973年、オレゴン州)
1973年10月、アメリカ・オレゴン州。ネオンと広告の明かりが禁止され、消えた看板に「明かりを消して節約しています」。 写真:David Falconer(NARA)/ パブリックドメイン(Wikimedia Commons)

100万枚の『氷の世界』が出た1973年12月。日本も世界も、オイルショックのただ中にいたWikipedia — オイルショック。

ゴーストバスターズの男と、ロサンゼルスで

井上陽水 - 旅から旅

1974

井上陽水「旅から旅」プロデュース:星勝(アルバム『二色の独楽』)この曲のページへ →

1974年10月1日、アルバム『二色の独楽』。全曲がロサンゼルスで録音されたWikipedia — 二色の独楽。

参加ミュージシャンがすごい。後に映画『ゴーストバスターズ』で知られるレイ・パーカー・ジュニア、ソロデビューしたばかりのジェシ・エド・デイヴィス、フィル・スペクターのアレンジャーだったジャック・ニッチェ、ジーン・ペイジ。クルセイダーズのジョー・サンプルとウィルトン・フェルダー、ハービー・メイソンも名を連ねるWikipedia — 二色の独楽。

星勝はこのアルバムの編曲を手がけた。当時、一緒に仕事をしていた人物は「このレコーディングでの星のアレンジに対して、スタジオ・ミュージシャンや他のアレンジャーからの評価は、一緒に仕事をしてきた僕が誇らしく思えるほど絶賛された」と書いているmusic-calendar.jp。

この作品で星勝は日本レコード大賞の編曲賞を受賞したWikipediaShimaQ の 今日この頃。売上も82万枚Wikipedia — 二色の独楽。

この録音、ギターにはレイ・パーカー・ジュニア(Wikipedia — 二色の独楽)。10年後に映画『ゴーストバスターズ』の主題歌で世界を踊らせる人です。1974年のロサンゼルスで彼を呼んでいたのは、日本から来た編曲家でした。

その頃、ポリドールにいた多賀英典が、自分の会社を作っていた。

1974年、ハリウッドのチャイニーズ・シアター
1974年11月、ロサンゼルス・ハリウッドのチャイニーズ・シアター。映画『大地震』を観る人の列。 写真:Chas Smith / CC BY 3.0(Wikimedia Commons)

「何でオレが…」から始まった、シクラメン

小椋佳 - シクラメンのかほり

1975

小椋佳「シクラメンのかほり」編曲:星勝、小野崎孝輔(共同)この曲のページへ →

1972年10月、ポリドールのプロデューサーだった多賀英典が独立して、キティ・ミュージック・コーポレーションを設立するWikipedia — 多賀英典。のちのキティ・レコードであり、キティ・フィルムである。星勝はポリドール時代に多賀と、ミキサーの大野進と知り合い、以後ずっと多賀の作品をサウンド面で支えることになるWikipedia。

その多賀に「小椋佳やってみない?」と言われたとき、星勝は「何でオレが…」と思ったという。返ってきたのは「陽水や安田裕美に好きに曲を書いていいよ」だったWikipedia。

「シクラメンのかほり」と「めまい」では、多賀から小野崎孝輔と一緒に作るように指示された。クラシック出身の小野崎がスケッチ・アレンジを渡すと、全部ロックに書き換えられて戻ってきたWikipedia。小野崎の証言が残っている。「大変な作業だったが、ロックを全く脈絡も根拠もなく全面に押し出すパワーには、すごいヤツが現れたと舌を巻きました」Wikipedia。

この時期、世間で小椋佳の曲として知られている曲が、実は星勝の作曲だった、という例が数多くあるWikipedia。

聴きくらべ — 星勝が歌う「スタンド・スティル」

小椋佳 / 星勝「スタンド・スティル」編曲:星勝この曲のページへ →
小椋佳さん、本人いわく「楽譜を書き起こせないし、楽器演奏も苦手」(Wikipedia — 小椋佳)。ギターのコードを鳴らしながら口ずさんでカセットに録り、誰かに譜面にしてもらい、編曲家に渡す。この「スタンド・スティル」では、その編曲家が隣で歌っています。現役の銀行員と元サイケ・ロッカーのデュエット。

キティは、このあと日本でいちばん強いロックバンドを抱えることになる。

清志郎、ご不満。でも半世紀、歌い継がれた

RCサクセション - スローバラード

1976

忌野清志郎 / RCサクセション「スローバラード」編曲:星勝、RCサクセションこの曲のページへ →

1976年1月21日、RCサクセションが久しぶりに出したシングル。編曲は星勝とRCサクセション。ちょうど日本公演中だったタワー・オブ・パワーのホーン・セクションが録音に加わっているWikipedia — スローバラード。

映画の主題歌にもなった。1991年の『![ai-ou]』、2015年の『ラブ&ピース』と、2本の映画の主題歌になったWikipedia — スローバラード。ゴスペラーズ、和田アキ子、Bank Band、槇原敬之、Superfly、渋谷すばる、鈴木雅之……と、歌い継ぐ人の列は今も続いているWikipedia — スローバラード。

録音の当時は、順風ではなかった。同じ年のアルバム『シングル・マン』はほとんど売れず、いったん廃盤になったが、のちに正式に再発売されているWikipedia — RCサクセション。

忌野清志郎は、あとからこう語っている。「モップスは好きだったから、あの感じやヴァニラ・ファッジみたいなものを期待したのに、井上のアルバムみたいにされそうになった」Wikipedia。

清志郎が「思っていた音と違う」と感じた録音が、半世紀たったいま、2本の映画の主題歌になり、歌い継がれている。編曲という仕事の不思議が、この1曲に詰まっている。

思いどおりにならなかった録音が、半世紀残った。
ピアノは深町純、と長く言われてきました。星勝さんはそれを否定しています(Wikipedia — スローバラード)。半世紀たっても「誰が弾いたか」で話が続く。それだけ、隅々まで聴き込まれてきた1曲です。

それでも、星勝の電話は鳴り続けた。次は、来生姉弟だった。

1970年代の終わりごろ、新宿の路上。
1970年代の終わりごろ、新宿の路上。 写真:白石准(Jun Shiraishi) / CC BY-SA 2.5(Wikimedia Commons)

第1次オイルショックは1977年3月まで続いたWikipedia — オイルショック。長いトンネルを抜けた街に、80年代が来る。

同じメロディが、11日違いで2回ヒットした

来生たかお - 夢の途中

1981

来生たかお「夢の途中」編曲:星勝この曲のページへ →

作詞は姉の来生えつこ、作曲は弟の来生たかお。姉弟のソングライター・コンビだWikipedia — 来生たかお。1976年のデビュー・アルバム『浅い夢』から、星勝はアレンジャーとして加わっていたWikipedia — 来生たかお。

1981年、来生たかおは「夢の途中」を歌う。薬師丸ひろ子が歌った映画の主題歌「セーラー服と機関銃」と同じメロディの曲で、どちらも編曲は星勝。シンプルなアルペジオとドラムスで始まる音が耳に残るWikipedia — セーラー服と機関銃(曲)。来生版はオリコン集計で40.6万枚を売ったWikipedia — セーラー服と機関銃(曲)。

来生たかおは、控えめで都会的、ノスタルジックな作風で、ほとんどビブラートを掛けない歌い方は「来生節」と呼ばれるWikipedia — 来生たかお。その声を、星勝はどう鳴らしたか。

そして1982年、姉弟の曲は中森明菜に渡る。

1982年11月10日、中森明菜の3枚目のシングル「セカンド・ラブ」が出る。作詞は来生えつこ、作曲は来生たかお、編曲は萩田光雄Wikipedia — セカンド・ラブ(曲)。

オリコン週間1位を通算6週。1983年度の年間8位、およそ77万枚で、明菜のシングルでいちばん売れた曲になったWikipedia — セカンド・ラブ(曲)。もとは、大橋純子に渡すつもりで作られた曲だったWikipedia — 来生たかお。

星勝が編んだのは、作った本人が歌うほうの「セカンド・ラブ」だ。来生たかおの録音のクレジットに、編曲 星勝の名前があるWikipedia — 星勝。

同じメロディでも、編曲と声が変われば、歌の景色が変わる。17歳の明菜の歌と、ほとんどビブラートを掛けない作者の歌。聴きくらべてみてほしい。

聴きくらべ — 同じメロディのもうひとつの声と、ふたつの「セカンド・ラブ」

来生たかお「夢の途中」編曲:星勝この曲のページへ →
薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」編曲:星勝この曲のページへ →
来生たかお「セカンド・ラブ」編曲:星勝この曲のページへ →
中森明菜「セカンド・ラブ」中森明菜版(編曲:萩田光雄)この曲のページへ →
同じメロディでも、声と編曲で景色が変わる。
来生さんの「夢の途中」が11月10日、薬師丸さんの「セーラー服と機関銃」が11月21日。来生さんは薬師丸さんの予約枚数を聞いて「大差をつけられたら」と不安になり、2曲ともベストテンに入って安心したそうです(Wikipedia)。自分の曲に、自分が負けるかもしれない恐怖。僕は自分で立てた月の目標に、毎月負けています。

この年、キティはもうひとつのバンドを売り出そうとしていた。

「歌謡曲っぽくて売れそうな曲」を、本気で狙った

安全地帯 - ワインレッドの心

1983

安全地帯「ワインレッドの心」編曲:安全地帯、星勝/プロデュース:星勝この曲のページへ →

安全地帯は1973年、北海道旭川市で玉置浩二と武沢豊を中心に結成された。井上陽水のバックバンドとして全国ツアーを回り、1982年にデビュー。1983年11月25日発売の「ワインレッドの心」が71.4万枚の大ヒットになったWikipedia — 安全地帯(ロックバンド)。

作詞は井上陽水、作曲は玉置浩二、編曲は安全地帯と星勝、プロデュースも星勝Wikipedia — ワインレッドの心。ヒット曲が出ない安全地帯に、スタッフは陽水への作曲依頼を考えたが、玉置が断った。玉置いわく「歌謡曲っぽくて売れそうな感じの曲」を狙って作ったWikipedia — ワインレッドの心。オリコン週間1位、1984年度の年間2位Wikipedia — ワインレッドの心。

ここが、多賀英典のキティ・レコードが最大の果実を取った場所である。多賀がポリドールから独立したのは1972年Wikipedia — 多賀英典。そこから11年。

この曲は海を渡った。香港の譚詠麟(アラン・タム)が「酒紅色的心」として広東語でカバーし、1984年のアルバム『愛的根源』に収めているWikipedia(中文) — 愛的根源広東語カバーソング事典。

聴きくらべ — 海を渡った夜と、もう1曲の星勝の編曲

譚詠麟(アラン・タム)「酒紅色的心」1984年の広東語カバーこの曲のページへ →
上田正樹「悲しい色やね -OSAKA BAY BLUES-」編曲:星勝この曲のページへ →
この曲、サントリー「赤玉パンチ」のCMソングでした。採用の条件が「作詞は井上陽水で」。だから詞は陽水さん、しかもCMに使われると知っていて書いた(Wikipedia — ワインレッドの心)。ワインの名前の入った歌が先か、赤い飲み物が先か。答えは、飲み物。

最後は1992年。11年前の歌が、星勝の手でもう一度生まれ変わる。

11年後に降り直した雪、170万枚

浜田省吾 - 悲しみは雪のように

1992

浜田省吾「悲しみは雪のように」編曲:星勝(1992年版)この曲のページへ →

もとは1981年の曲。1992年、フジテレビのドラマ『愛という名のもとに』の主題歌になったのをきっかけに、アレンジを大きく変えて録り直し、シングルで出し直したWikipedia — 悲しみは雪のように。

イントロはポリスの「見つめていたい」に似ていると言われる。でも浜田省吾の頭にあったのは、ジュード・コールというアーティストの曲だった。その曲を星勝に聴かせて「こういう感じにしたい」と頼んだ。結果は、累計170.3万枚、通算10週1位。浜田のシングルで過去最大のヒットになったWikipedia — 悲しみは雪のように。

星勝は1991年、スタジオジブリ『おもひでぽろぽろ』の音楽を担当している。2013年の映画『ペコロスの母に会いに行く』では音楽監督を務めた。1990年には尾崎豊のアルバム『誕生』全20曲を編曲した。浜田省吾とは1977年の「木枯しの季節」から。縁をつないだのは、モップスのドラマーだった鈴木幹治。浜田のプロデューサーになっていた彼が、星を呼んだWikipedia — 星勝。「悲しみは雪のように」の依頼も、いつもと変わらず「カッコ良いサウンドにして下さい」だったと本人が振り返っている週刊現代。

いま星勝は、宮城県村田町の親善アンバサダーを務めているニュース映像。町の讃歌「クラリン」も、この人が作曲したWikipedia。

通算10週1位。ただし途中の1週だけ、とんねるずの「ガラガラヘビがやってくる」に首位を奪われています(Wikipedia)。雪の悲しみが、ヘビに1回だけ負けた。人生、そういう週もある。
名前を知らなくても、あなたはこの人の音を聴いている。

最後にもう一度、04章の、若い陽水が歌う「氷の世界」を聴いてみてほしい。

星勝さんのことを、坂崎幸之助さんがテレビで紹介している映像も残っている。

坂崎幸之助(テレビ番組)「坂崎幸之助が星勝さんを紹介!井上陽水や小椋佳とも深いつながりが!」星勝を紹介するテレビ番組

名前を知らなくても、その音は、あなたの耳を通り抜けているかもしれない。

たとえば、スタジオジブリの『おもひでぽろぽろ』(1991年)。都はるみが歌う主題歌「愛は花、君はその種子」の編曲は星勝だWikipedia — おもひでぽろぽろ。尾崎豊のアルバム『誕生』(1990年)は全曲の編曲を星勝が手がけ、オリコンで初登場1位になったWikipedia — 誕生。井上陽水「リバーサイド ホテル」も星勝の編曲でWikipedia — 星勝、ドラマ『ニューヨーク恋物語』の主題歌として再びヒットしたWikipedia — リバーサイド ホテル。H2O「僕等のダイアリー」の編曲も星勝だWikipedia — 星勝。

聴きくらべ — 名前を知らなくても、耳を通り抜けているかもしれない

都はるみ「愛は花、君はその種子」編曲:星勝この曲のページへ →
尾崎豊「LOVE WAY」編曲:星勝この曲のページへ →
井上陽水「リバーサイド ホテル」編曲:星勝この曲のページへ →
H2O「僕等のダイアリー」編曲:星勝この曲のページへ →

知らなかったら、今日からでいい。日本の音楽の裏舞台を支えた編曲家を、今から辿ってみてはどうだろう。

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▼この記事を書くきっかけになった動画

「なぜ、大人になると新しい曲を聴かなくなるのか【鳥類学×音楽心理学】」(汝、ヒトを知れ)

「歌を覚える季節は終わらない」

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