Feature — 人が踊るとき · 11 songs · vol.1

人が踊るとき〜人はなぜ踊るのか。
9,000年前の壁から、1995年のモントルーまで〜

腰が勝手に動いてしまう音がある。その正体を確かめに行く旅です。
呪術の踊り、鎮魂の踊り、禁じられた踊り、命令の踊り。11曲、ぜんぶこのページの中で鳴る。

人は、なぜ踊るのか。

音楽の話をしているのに、体が先に答える瞬間がある。それは9,000年前も、きっと同じだった。インドの岩陰に残された壁画には、狩りの途中の人々ではなく、輪になって踊る人々が描かれているWikipedia。

このシリーズでは「踊れる音楽」を、ジャンルの話としてではなく、人類の営みとして辿る。呪術と鎮魂から始まって、スキャンダルと禁止を通り、腰が「1」を叩くようになって、機械が夜を回すようになって——そして昨日のライブまで。

Vol.1では、踊りの「最初の記録」から、1995年のモントルーの舞台までを一気に。11曲、ぜんぶこのページの中で鳴る。曲の話の合間に、その時代の世相も一緒に連れてくる。踊りはいつも、その場所で生きている人たちの顔をしているからだ。

鳴らしながら読むのがおすすめです。ごきげんは、補給できるうちに。

最初の記録は、絵だった

最古の踊りは、壁に残っている

紀元前9000年〜紀元前1400年

フルリアン・ヒムン(復元演奏)「The Oldest Known Melody (Hurrian Hymn no.6)」紀元前1400年ごろ、ウガリト(今のシリア)で粘土板に書かれた旋律を、研究者の解読をもとに復元した音

インド中央部のビンバイトカ岩陰遺跡。9,000年前ごろとされる壁画に、人々が描かれている。棒を突き出して、輪になって、跳ねている。狩りの絵ではない。踊りの絵だWikipedia。考古学はここを「踊りの最古級の証拠」に挙げるSmarthistory。

考える。人類はまだ文字を持っていない。持っているのは火と石器と埋葬の作法。その時代の誰かが、壁に「踊る人」を描いた。食べ物でも武器でもなく、踊りを。つまり踊りは、人類の最初期から「描くに値するもの」だった。

では、壁の前で鳴っていた音は、聞けるのか。残念ながら音は残らない。残っているのは最古級の旋律として名高い、紀元前1400年ごろのフルリアン・ヒムン。楔形文字の楽譜が粘土板に残っていて、解読をもとに復元された音が今に届いているWikipedia。今鳴っているのがそれです。壁の絵より4,000年くらい若い。でも、あの夜に鳴っていた音は、もしかしたら似ていたかもしれない、というくらいの想像をしながら聴く。

ビンバイトカの岩陰遺跡に残る壁画
ビンバイトカの岩壁に残る、踊る人々の絵。写真:Nandanupadhyay / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
正直言うと、聴き心地は「実験的」です。でもよく聴くと拍がある。拍があるということは、たぶん、踊れる。

踊りはいつも「あぶないもの」扱いを受ける。日本でも、ハワイでも、ヨーロッパでも。まずは、あの夏の日本から。

死者と生者が、同じ輪の中

踊る阿呆に見る阿呆

1586〜

徳島・阿波おどり鳴物と掛け声8月中旬の徳島市。街ごとが舞台になる、400年続く踊り

日本の踊りの記録で、いちばん生々しいのは盆踊りだと思う。起源は鎌倉時代の念仏踊りとされ、室町時代に太鼓を叩いて踊る今の形に近づいて、盂蘭盆で戻ってくる精霊を供養するために、街ごとが動くWikipedia。死者のための踊り、のはずなのに、現場はもっとも生きている場所になる。

その系統でいちばんデカいのが、徳島の阿波おどり。天正14年(1586)に蜂須賀家政が徳島に入国して以降、城下で盛んに踊られるようになり、起源は築城祝いとする説など諸説ある徳島県。毎年8月11日から15日、国内外から100万人超が集めるThe Awaodori。

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」。この掛け声がいいのは、踊り手と観客を同じ「阿呆」に下ろすところだ。ステージと客席の壁がない。見ていた人が、いつの間にか列にいる。

徳島市の阿波おどり
徳島市阿波おどり。連(れん)ごとに踊りが街を流れていく。写真:Kounosu / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
盆踊りは「死者のために踊る」って言われますが、現場のみんなは生き生きしています。供養と祝祭の境目は、たぶん最初からゆるかった。

海を越えると、踊りは「禁じられたもの」になる。消された踊りを、戻した人たちの話。

禁止された踊りを、王様が連れ戻した

フラは、消えなかった

1820〜

フラ・カヒコメリー・モナーク・フェスティバル 2015年優勝(ウアヒネ部門)ハワイ島ヒロで毎年開かれるフラ競技会。太鼓と詠唱で踊る、古典の部

1820年ごろからハワイに来た宣教師たちの目に、フラは映らなかった。「不道徳だ」とされ、19世紀にはフラの公演が禁じられる。それでもフラは消えなかった。家族の中で、村の中で、見られない場所で生き続けたMerrie Monarch Festival 公式。

連れ戻したのは、カラーカウア王。舞踏会とフラを愛した王は「陽気な君主(Merrie Monarch)」と呼ばれ、その王の名前を冠したフラ競技会が今も毎年ハワイ島で開かれている。1971年からは競技大会として始まり、各ハラウ(フラの流派)が詩と踊りの正確さを競うMerrie Monarch Festival 公式。

フラは「お土産の甘い踊り」ではない。詩(メレ)と手の動きがセットで、歴史と系譜を体で運ぶ「記憶の装置」だ。だからこそ、禁止されても消えなかった。踊りは、その人の来た道を覚えている。

メリー・モナーク・フェスティバルのフラ
メリー・モナーク・フェスティバル。世界一のフラを競う一週間。写真:Allanbcool / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
「踊りは消されることがある。そして戻ってくる」——この一点が、この旅全体の伏線です。

では、ヨーロッパでは何が問題だったのか。答えは「抱くこと」だった。

抱いたまま、回る

ワルツは、なぜスキャンダルだったのか

1867

ヨハン・シュトラウス2世「美しき青きドナウ」ウィーン・ニューイヤーコンサートの映像。現在では最も「格式高い」側の踊り

今でこそ「格式」の代名詞のワルツだが、最初期のワルツは、踊りという名の醜聞だった。男女が組んで、腕を回して、抱き合うくらい近くて、回る。18世紀末から19世紀のヨーロッパで、この「閉じたホールド」は道徳的な非難の対象になり、宗教家や批評家が筆を振るったConcert Vienna。ダンスと「世間の騒ぎ」の研究では、ワルツをめぐる論争は「モラル・パニック」の初期の事例として語られているWaltzing Through Europe(OBP)。

それでも、みんな回った。1867年、ヨハン・シュトラウス2世が「美しき青きドナウ」を発表し、ウィーンの舞踏会文化は世界の標準語になる。批判は負けて、曲は勝った。以後の踊り史は、ずっとこの構図のリピートだ。「その踊りは危ない」→ みんな踊る → 数十年後に「文化」として受賞。

腰を動かすことが「はしたない」だった時代を通って、次の世紀の若者たちは、もっと根本的な自由を手に入れる。それは、誰かを抱かないことだった。

ウィーンの宮廷舞踏会を描いた絵画
ウィルヘルム・ガウゼ「ウィーンの宮廷舞踏会」。この華やぎの外側で、批評家は筆を走らせていた。写真:Wilhelm Gause / Public domain / Wikimedia Commons
先祖の皆さん、すみません。舞踏会の絵、めちゃくちゃ美しいんですが、当時の批評の文章はほぼ「あそこの若者がまたやってる」です。

1960年、踊りは「二人の営み」であることをやめる。

二度も1位になった踊り

The Twist — パートナーが要らない

1960 / 1962

チャビー・チェッカー「The Twist」(1961年の歌唱映像)1960年9月19日に全米1位、1962年に再び1位。別の年で2度1位になった史上初のシングル

1960年9月19日、18歳のチャビー・チェッカーの「The Twist」が全米1位になる。そして1962年、もう一度1位。別の年に2度1位に届いたのは史上初のことで、今でもこの記録を持っているのはこの曲だWikipediaHISTORY。

革命は「抱かないこと」だった。パートナーと体を触れ合わせず、各自が腰を回す。ペアダンスの作法を全部捨てて、踊りを「一人でもできること」にした。大人たちが眉をひそめたのは、接触ではなく接触の解除のほうだった、という見方もできる。

広がり方もモダンだった。テレビで踊りの見本が流れ、都市から地方へ、 teen-ager という新語くらい若い「若い衆」の文化が一気に全国へ。踊りの流行が「情報の伝播」になる最初期のケースだHISTORY。

45回転シングル盤の山
踊りの流行は、シングル盤の山としても積まれた。写真:Public Domain Pictures(パブリックドメイン)
「お前のやつは変だ」と言われた踊りが2年後にスタンダードになる。その2年後、音楽の中心に「1拍目」がやってきます。

そして1967年、腰は音楽の中心になる。

1拍目に、すべてを叩け

James Brown - Sex Machine

1967 / 1971

ジェームス・ブラウン「Sex Machine」(1971年、パリ・オランピア)ステージも客席も、腰が専業になる夜この曲のページへ →

ファンクの発明は、理論としては素朴で、結果としては革命だった。バンド全員が「1」を狙う。コード進行はほぼ捨てる。1967年5月、ジェームス・ブラウンは「Cold Sweat」を録音する。R&Bチャート1位、ポップ7位。よく「最初のファンク」と呼ばれる曲だWikipedia。

ここで有名なあの掛け声。「Give the drummer some」——ドラマーにソロを与える、あの録音以降のドラマー全員の教科書になる。ギターの名手やピアノの名手の話ではなく、みんなで「1」を叩くという、踊りのための音楽の誕生だ。1967年のアメリカは、都市部で緊張が続いていた年でもある。腰を動かすことは、この時期、素直な喜びだけじゃなく、日々の緊張を吐き出す場所でもあった。

そしてJBは曲の中で踊り方まで説く。「Get on the good foot」。彼の曲は、踊りの指導書を兼ねていた。音が鳴れば体が勝手に返事をする——それを、曲として設計した最初のひとり。

聴きくらべ — その始まりの音

ジェームス・ブラウン「Cold Sweat」
「Sex Machine」というタイトルには今も開いた口が塞がりますが、中身は完璧に実用的。歌詞に踊り方の説明が入っている、ファンクの伝統です。

ディスコの夜が始まる。そして、その夜は「殺される」。

機械が、夜を回しはじめる

Donna Summer - I Feel Love

1977 / 1979

ドナ・サマー「I Feel Love」プロデュース:ジョルジオ・モロダー&ピート・ベロッテ。オーケストラの代わりにシーケンサーを置いたこの曲のページへ →

1977年、ドナ・サマーとジョルジオ・モロダー、ピート・ベロッテは、ディスコのバンドを解雇して、シーケンサーを雇った。均一な拍動がループして、声だけがその上で泳ぐ。この曲の影響リストは公的にすごい——デヴィッド・ボウイ、ブライアン・イーノ、ヒューマン・リーグ、ブロンディ。以降のエレクトロニック・ダンス・ミュージックの設計図とされるWikipedia。

その2年後、1979年7月12日。シカゴ・コミスキー・パーク。ホワイトソックスの試合のプロモーションとして「ディスコのレコードを爆破する」というイベントが開かれる。ラジオDJスティーヴ・ダールの「Disco Sucks」キャンペーンが背景にあり、試合間に積んだレコード箱が爆破されると、観客がフィールドに乱入して試合続行不能。WikipediaWTTW。

「ディスコは死んだ」——そう告発側は言った。実際に死んだのは形だけだった。踊る体は地下に降りて、小さなクラブに移動する。そして皮肉なことに、そのシカゴで、後のハウスミュージックが生まれる。爆破事件の街で、次の夜が設計されたWTTW。

積まれたレコード
ディスコの時代は、レコードの山そのものでもあった。写真:Pixnio(フリー素材)

聴きくらべ — その夜の記録

Disco Demolition Nightコミスキー・パークの記録レコードを燃やして音楽を殺せると信じた人たちがいた夜
レコードを燃やせば音楽を殺せると思った人がいた。その8年後、世界中が「Ride on Time」を鳴らします。次はその話。

ディスコの復讐は、イタリア生まれのピアノ・リフの形をしていた。

6週間、1位

Black Box - Ride on Time

1989

ブラック・ボックス「Ride on Time」UKチャート6週連続1位、1989年の全英で最も売れたシングルこの曲のページへ →

1989年、イタリアのダニーレ・ダヴォリたちは「ロックのパワーを持ったダンス曲」を作ろうとしていた。ニューヨークで買った12インチ盤、ロレアッタ・ホロウェイの「Love Sensation」(1980)のアカペラを、サンプラー(Akai S900)に刻んで、ピアノ・リフを重ねるWikipedia。

クラブでのテストでは、失敗した。「1,000人が踊っていて、その場が空いた。心が折れた」。でも仲間は言った——「クラブが違った」。イタリアのレーベルはどこも興味を示さず、結局イギリスのDJたち(ポール・オーケンフォールド、ダニー・ランプリング)が輸入盤を全部買って持ち帰ったWikipedia。

細部は山盛り面白い。タイトルはサンプルした歌詞「right on time」を「ride on time」と聞き間違えたもの。ダヴォリはホロウェイがすでに死んでいると勘違いしていた(生きていた)。著作権者との交渉の結果、ヴォーカルは差し替えられ、吹き直したのはヘザー・スモール(のちのM People)。テレビ番組に立ったのは、モデルのカトリン・キノル——口パクであることは、ほぼ公然の秘密だったWikipedia。

それでも、チャートは6週間1位。1989年の全英で一番売れたシングルになったWikipedia。焼かれたはずのディスコの声が、ピアノ・リフに乗って、全員の夏に戻ってきた。

ミラーボールとダンスフロア
マイアミでもロンドンでも東京でも、あの夏は床が見えなかった。写真:Bin im Garten / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

聴きくらべ — サンプルの主(ぬし)

ブラック・ボックス「Ride on Time」(オリジナル・ヴァージョン)ロレアッタ・ホロウェイの声がそのまま鳴る、最初のバージョン
この騒動の始まりは「サンプリングは2秒未満なら合法だと思っていた」でした。法律知識、踊りには関係なさそうで、関係あります。

ブームは国境を越えて、ベルギーのスタジオと、東京の夜へ。

声は中身で、顔はモデル

Technotronic - Move That Body

1991

テクノトロニック「Move That Body」(feat. Reggie)アルバム『Body to Body』からのシングル(1991年)この曲のページへ →

ベルギーのテクノトロニックは、「Pump Up The Jam」(1989)で全米チャート2位まで行ったとき、表の顔と中身の声が別人だった。ステージとMVに立っていたのはモデルのフェリー・クリンギで、レコードで歌っていたのはヤ・キッドK(マヌエラ・カモシ)Wikipedia。ブラック・ボックスと同じ季節の、同じ構図だ。ダンス・ブームは「声を借りた夜」でもあった。

1991年、セカンド・アルバム『Body to Body』から「Move That Body」が出る。テクノトロニックの最後のトップ20ヒットとされる1曲だTOTP Rewind。タイトルは歌詞というより、業務連絡。全世界が即座に返事をした。

同じ1991年5月15日、東京・芝浦にジュリアナ東京が開店する。収容3,000人、高さ3メートルの「お立ち台」に、ボディコンのギャルがジュリ扇を回す。バブル崩壊後の夜で、1994年8月31日まで続いたWikipediaNHKアーカイブス。扇子を振るのは、踊りの許可証の代わりだったのかもしれない。

「Move That Body」は命令文です。文法で言うと祈文的。踊りは9,000年前も、1991年も、たぶん祈りでした。

チャートの話が続いた。ここからは、踊る体の側の話をしよう。

ファンクは、今日も生きている

Candy Dulfer - Pick Up The Pieces

2009

キャンディ・ダルファー「Pick Up The Pieces」第30回レヴェルクーゼン・ジャズターゲ(2009年11月12日)この曲のページへ →

2009年11月12日、第30回レヴェルクーゼン・ジャズターゲ。キャンディ・ダルファーがスコットランドのバンド、アヴェレッジ・ホワイト・バンドの「Pick Up The Pieces」を吹く。元ネタは1975年2月22日に全米1位になった曲だWikipedia。

元のバンド名からして、もう立派なジョークである。「アヴェレッジ(平凡な)ホワイト・バンド」——スコットランドの白人たちが、黒人のために育ったファンクを演奏する、という自己言及の名前だ。カバーとは、こういうことの連鎖でもある。ファンクは「誰のもの」でもなくて、腰が動く人のもの。

キャンディ・ダルファーはアムステルダム生まれ(1969年9月19日)、父はサックス奏者のハンス・ダルファー。14歳で自分のバンド「ファンキー・スタッフ」を作り、19歳のアルバム『Saxuality』がミリオンセラーになってグラミー候補になる。のちにプリンスのツアー・バンドにも参加したWikipediaPrince Vault。

このライブが良いのは、カバーの作法を全部やっているからだ。元ネタを壊さない。でも、吹き口から横から押し込む。観客は最初から踊っている。JBが「1」を叩いてから、半世紀経っても、腰はちゃんと返事をしている。

ライブのステージでサックスを構える奏者
サックスは、踊る体のいちばん外側に置かれる楽器だ。写真:Jadezplays1 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

聴きくらべ — 元ネタ(1975年)

アヴェレッジ・ホワイト・バンド「Pick Up The Pieces」「トップ・オブ・ザ・ポップス」1975年3月20日放送分(HD修復版)
ファンクのカバーで大事なのは「上手く吹く」ことより「間を空けない」ことなのかもしれない、とこの映像を見て思いました。間を空けない。昨日の僕です。

さいごに、いちばん深いところへ。

ベースの底から、こんにちは

Meshell Ndegeocello - Boyfriend

1995

メシェル・ンデゲオチェロ「Boyfriend」(モントルー・ジャズ・フェスティバル 1995)華やかさを捨てて、「深さ」で観客を床に着かせるライブこの曲のページへ →

1995年、モントルー・ジャズ・フェスティバル。メシェル・ンデゲオチェロがベースを弾き、「Boyfriend」を歌う。1968年8月29日、ベルリン生まれ。育ったのはワシントンD.C.で、地元のゴーゴー・サーキットで鍛えられたベーシストだWikipedia。

1993年にデビューし、1994年には自作の「If That's Your Boyfriend (He Wasn't Last Night)」をヒットさせる(全米73位)。ジョン・メレンキャンプとのデュエット「Wild Night」は全米3位。マドンナのアルバムでベースを弾き、ローリング・ストーンズの「Saint of Me」でも弾く。グラミー候補は通算13回、受賞は3回。ネオ・ソウルの流れの火付け役とされる人だWikipedia。

踊りを「高くする」音楽はあった。彼女は底に潜る。ベースとキックの床面の上を、声がまたぐ。この「Boyfriend」のライブは、その底の景色がそのまま録画されている。踊りの話をどこで締めるか迷って、ここに置いた。腰が動く音楽の、いちばん下はベースで、いちばん奥は「静けさ」だと教えてくれる音だから。

聴きくらべ — 1994年のあの一文

メシェル・ンデゲオチェロ「If That's Your Boyfriend (He Wasn't Last Night)」1994年。タイトルだけで状況が全部伝わる1曲
「踊る」って上方向の運動に聞こえますが、たぶん違う。ちゃんと踊れる人は、底まで降りている。この曲は1.5倍速で聴かないでください。お願いだから。

さて。9,000年前の壁に、戻ろう。

人は、なぜ踊るのか。

旅の答え合わせをすると、答えは一つじゃなかった。鎮魂のため(盆踊り)。記憶のため(フラ)。恥を解除するため(ワルツ)。自由にするため(Twist)。戦略として(ジェームス・ブラウン)。機械の拍動に乗って(モロダー)。復讐として(ブラック・ボックス)。命令に応じて(テクノトロニック)。そして、今日も(キャンディ・ダルファー)。

それでも共通点は一つ見つかる。9,000年前のあの人たちは、壁に狩りの絵を描かずに、踊りの絵を描いた。踊りが「生きるために必要なこと」だったからだ。だから、次にあなたの腰が勝手に動いたら、それはあなただけの話じゃない。9,000年ぶんの返事が、あなたの体から出ている。

次回はファンクを深掘りする。1拍目の子孫たち——スライ、Pファンク、そしてネオ・ソウルまで。Vol.2でお会いしましょう。夜は長い。

本編に収めた曲:フルリアン・ヒムン(復元)/阿波おどり/フラ・カヒコ/美しき青きドナウ/The Twist/Sex Machine/I Feel Love/Ride on Time/Move That Body/Pick Up The Pieces/Boyfriend

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▼この記事を書くきっかけになった動画

「なぜ、大人になると新しい曲を聴かなくなるのか【鳥類学×音楽心理学】」(汝、ヒトを知れ)

「歌を覚える季節は終わらない」

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